10月16日(木)

・「相対的」の話、続き。言語学(というより半分認識論の分野に入ってるんですが)に「知覚の相対性」っていう言葉があって、これは、同じ「リンゴは赤い」という文で表される現象でも、実はリンゴを観測する人それぞれに、ちょっとオレンジよりの赤にリンゴを認識したり、もうちっと濃い赤色のリンゴと認識したりと、実際には「赤い」の部分に人それぞれの部分が出てきてしまう現象を指しています。これと対になるのが「知覚共有の信念」という言葉で、これは、そうは言っても、みんな同じ「赤い」を観測してるんだと、そのリンゴが「赤い」という場合の「赤い」は万人みんなに通用する「客観的な」同じ「赤い」だと信じ込む状態を指しています。言語学的には、突き詰めると、「客観的」というのは、この「知覚共有の信念」が強く発動している状態ということになります。どんどん突き詰めると、「客観的」というのも「客観的」だとその人が「主観的」に思ってるに過ぎない訳ですが、それでも、その知覚は万人に共通なんだという「信念」がその人の主観に発動した時に、「客観的」って言葉は使われるようになるということですね。
・主観−客観の違いを認知上区別できるのは人間に備わっている重要な機能ですので、どちらかを否定したりっていうのはできないのですが、時として、「客観」のバックボーンになっているこの「知覚共有の信念」が、人々のすれ違いを生んだり争いの原因になったりします。「リンゴは赤い」くらいだったら、まあみんなで共有して「客観的に」リンゴは赤くてもあんまり問題にならないと思うのですが、「この作品は面白い」とかになってしまうと、そこに強引に「知覚共有の信念」を発動させて、この作品は万人共通に「客観的に」面白いんだなんてことを誰かが「主観的に」言い出すと、いや、僕は面白くない、私は面白いと、そういう「知覚の相対性」に基づいた対立が沸き起こってしまったりします。
・「知覚の相対性」に基づいた私の感覚は私の一主観に過ぎないというスタンスも、「知覚共有の信念」に基づいた、これは万人で共有できる客観的な事実だというスタンスも、使い所次第だという話なんですが。
・大きい所で本田健さんのライフワークを生きるや、竹田和平さんの適材適所の貯徳時代、小さい所で西田さんの趣味起業とか、そういう誰しも自分の色を大事にしながら、その色が経済活動にも反映される時代っていうのは、綺麗事的だけど、追いかけるに足る理想のように思える。
・「企業Aは素晴らしい」というのに「知覚共有の信念」が働いてしまって、企業Aは「客観的に」素晴らしい、みんなでそれを共有しよう、みんながその企業で働くことを目指そう……という世界を仮定すると、ちょっと不気味に感じる。
・『Papa told me』に、チューブから出した原色だけで塗りつぶした絵はつまらない、自分で工夫しながら他の色と混ぜて新しい色を作ったり、薄めたり濃くしたりと色々しながら、彩色していくのが楽しいんじゃないか、という趣旨の台詞が出てくるのだけど、あの話はようはこういう主題を扱っていたのだな、とか。
・そして、彩色する際、人間はまったくの無から新しい色を生み出すってことは出来なくて、既存にある色を混ぜ合わせながら創り出していくしかないのだと。昨日の日記で書きたかったのはそんな感じのことだったのでした。
Papa told me (1) (ヤングユーコミックス (013))
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